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街角評論

 目 次

諸問題 ---------「現状分析」批判
木漏れ日の下----うたかたの記憶  

 リセッションの足音が聞こえる(9/22)

 雑音の震源地は米国なのだろうか、かの地よりのニュースは心地よいものではない。FRB(Federal Reserve Board)、大学そしてマスコミへの 過度の介入である。それは宗教施設ににて、そっとしておいたほうが、心穏やかだ。やりすぎると、残された人が後に苦労する。
私たち今の日本人のように。

はじめに貨幣ありき

 古代の人々がある種の物をもって媒介交換することは至極当然と考えられる。遠方の共同体と共同体との交換に金属のそれは 実に重要な役割を果たす。青銅、銀そして金は生まれながらの交換媒体であり、価値物であり、歴史的産物として現存してきた。 何となればそれらはおおいさに応じ、細分化されあるいは合体されうる、実に便利な自然的特性を備えている。
交換を媒介する物は有用かつ価値を保存している。時間と地理的空間を経てあらゆる共同体構成員の精神にこの物は価値として認容される。 貨幣とは支払手段であり、価値を表し、価値を内包(胎蔵)するとするなら、金や銀は生まれながらの貨幣である。 構成員に認容と先ほど言ったが、この認容を言い換えれば信用である。
 貨幣を時代から抽象し一般化する、こんなことは本稿の対象外である。今日、生きている現代社会を考えるに上で、しかも経済学的視点より見たいだけである。 交換媒体は時代の移ろいとともに変化してきたが経済的意味合いは不思議と変わらない。 近世初頭、大航海時代のスペインとポルトガルの覇権争い、続くオランダとイギリスの商業資本の争いへと絶え間ない。 資本主義社会の前史としての近世は商業資本を、近代社会は産業資本をそして現代社会は金融資本を中心として見ていきたい。